歯医者と入れ歯と食支援 ― 食支援の現場から①

執筆:五島 朋幸(歯科医師)
歯医者と「食」。皆さんは、どのように結びつけて考えるでしょうか。
たとえば入れ歯の不調の訴えには、「噛むと痛いんです」「うまく噛み切れないんです」「食事中に外れるんです」などがあります。よく考えると、どれも食事に関する訴えです。もちろん入れ歯に限らず、自分の歯でも同じような訴えがあります。そうなのです。歯科は「食」のプロフェッショナルなのです。
僕は1997年から、東京都新宿区で訪問歯科診療を始めました。31歳の若造でした。とはいえ歯科医師になって7年目で、それなりの治療はこなせていたにもかかわらず、歯科がこれほどまでに「食」と密接に関わっているとは思っていませんでした。「痛い」「噛み切れない」「外れる」という訴えはすべて入れ歯の問題にすり替わり、それが生活や人生をも左右する「食」の問題だとは考えていなかったのです。訪問してその方の家の中に入り、においや空気を感じて初めて生活が見え、その先に「食」の問題が見えたのです。
これまで20年以上にわたって「食支援の現場」に携わってきました。最初にお伝えしておきます。ここで紹介する知識を少し取り入れ、食に対する意識を少し高めるだけで、皆さんや皆さんのご家族の「食」は確実に変わります。食べることは生きることです。ぜひ関心を持ってください。
外された入れ歯
訪問歯科診療を始めたのは1997年11月。きっかけは本当にささいなものでした。
当時、私は母校の大学病院の補綴(ほてつ)科に勤務していました。入れ歯の専門講座で、将来は入れ歯のうまい歯医者になれればいいなと思っていました。そんなとき、地域で訪問診療をしている内科医に偶然出会い、「先生、在宅医療の現場には歯医者さんがいないんですよ。ぜひやってくれませんか」と言われたのです。
正直、何のことかピンときませんでした。最近では歯医者の往診や訪問診療も耳にするようになりましたが、当時はほとんどそのようなものはなく、私自身も「寝たきりのお年寄りに、歯医者がやることなんてあるの?」という程度の認識でした。ただ興味もあったので、内科医の訪問に数日同行することにしました。
初めて訪れた在宅医療の現場は衝撃的でした。いわゆる「寝たきり」の方たちは、全員が入れ歯を外されていたのです。100%全員です。
当時は、入院すると「危ないから」という理由ですぐに入れ歯を外すのが慣例でした。さらに、今の急性期病院と違って入院期間も長く、数か月単位の入院の間ずっと入れ歯は外されたまま、退院と同時に返されていたのです。
長い間外していた入れ歯は合わなくなり、使うことができません。入院するほどの急激な体調の変化があれば、1週間外しておくだけで入らなくなることもあります。以前、退院された方の総入れ歯の調整にうかがったところ、あまりに合わないので「病院で他の方の入れ歯と取り違えられたのかもしれません」とご家族に確認していただいたことがありました。もちろん、ご本人のものでした。それほど変化してしまうのです。
退院後に元気になり、かかりつけの歯科医師に修理や調整、作り直しをしてもらえれば、また入れ歯を使えるようになります。しかし、そのまま寝たきりになると、入れ歯を外したまま生活しなければならなかったのです。
実は当時、入れ歯の問題は2つありました。1つは、前述の「外された入れ歯」の問題です。もう1つは、「誰にも気づかれなかった入れ歯」の問題です。お口はプライバシーのある空間で、むやみに人に見せるものではありません。それは家族に対しても同じで、どんな歯の状態で、どんな治療を受けたかまでは家族にも伝えないものです。その結果、寝たきりになったときに、介護者が入れ歯であることを知らないということが頻繁に起きていました。数年単位で外されていない入れ歯もありました。
「特に問題ありません」の裏側
しかし、もっと大きな問題が別にありました。同行させていただいた内科医が、各家庭で「この方は歯医者さんなんですが、お困りごとはありますか?」と聞いてくれたのですが、返ってきた答えはすべて「特に問題ありません」「うちは大丈夫です」というものでした。入れ歯の問題は、確かにそこにあるにもかかわらずです。
当時は「食べられるものを食べる。食べられなくなったらミキサーにして飲む。だめなら点滴、それもだめなら鼻からチューブ……」という世界でした。つまり、入れ歯がなければミキサー食にすればいい、という考え方だったのです。寝たきりになれば歯医者には行けないし、歯医者も往診してくれない、という現実があったからです。
補綴科にいた僕は思いました。「入れ歯の問題なら解決できる。訪問しよう!」と。当時は月曜日から土曜日まで勤務していたので、休日だけを使って訪問診療を始めました。その日から十数年、休日がなくなるとは想像もせずに……。
初めて訪問した方のことは、もちろん覚えています。上下とも総入れ歯の、ご高齢の女性でした。診療室とは異なる、新鮮な空気でした。まさに生活の現場にいるのです。そして最初に聞きました。
「入れ歯が治ったら、何が食べたいですか?」
「アワビ」
「……アワビですか……」
いきなり前途多難なスタートとなりました。
口腔ケアと食べること
僕が訪問を始めたころ、時代は大きな転換期を迎えていました。「病院から在宅へ」という流れの中で介護保険法が成立し、施行に向けてケアマネジャーの試験が始まったりしていました。そんな中、誤嚥性肺炎の予防効果が期待できるとして、口腔ケアが注目され始めました。
外された入れ歯を入れるために始めた訪問でしたが、すぐに口腔ケアも僕たちの役割になりました。むし歯や歯周病予防の歯磨きについてはプロフェッショナルでも、「誤嚥性肺炎」「口腔ケア」という言葉すら聞いたことがなく、最初は何をすればいいのかもわかりませんでした。
とはいえ、在宅の患者さんたちの口の中は惨憺たるものでした。病院では一切ケアされておらず、口の機能の低下とともに汚れはひどくなり、歯垢(プラーク)や歯石どころか、数日前のものと思われる食べ物がそのまま残っている方も多くいました。
現在では口腔ケアも定着し、当時と比べると格段にきれいになっていますが、まだ十分なレベルとはいえません。問題は2つあります。
高齢になると、歯磨きは意外と早く難しくなる
1つ目は、高齢者は意外と早い時期から、自分で十分なブラッシングができなくなることです。自分で歯を磨くときの手の動きを思い浮かべてみてください。右から左に動かしたり、ブラシの向きをクルッと回転させたりしますよね。この動きが、高齢者には意外と難しいのです。もともと歯磨きをしっかり実践していた意識の高い方でも、うまくブラシをコントロールできなくなり、十分なケアができなくなってしまいます。家族は「お母さんは毎日5分も磨いている」と思っていても、実は磨けていないということが起こります。
誰も口の中を見ていない
2つ目は、ブラッシングを支援する体制の問題です。口はプライバシーのある空間で、本人が見せたがらないこともあります。また、介護者や介護職の口腔ケアへの意識も、まだ高いとはいえません。その結果、状態が悪いのに誰もケアをしない、ということが起きてしまいます。
口腔ケアで誤嚥性肺炎を防げる本当の理由
では、なぜ口腔ケアで誤嚥性肺炎を予防できるのでしょうか。実は、社会的に大きな誤解があります。一般には「口腔ケアで口の中の細菌が減るから、肺炎が予防される」と思われています。もちろんその効果もあるのですが、実は口腔ケアで口をしっかり刺激することで、飲み込みの機能が向上するのです。
食べる機能が低下していなければ、しっかり噛んで食べることで口は刺激されています。しかし、何らかの事情で口から食べていない人は刺激が少なく、飲み込みの機能も低下しています。そこで口腔ケアによって口を刺激すると、機能が再び向上し、誤嚥を予防するのです。これが誤嚥性肺炎の予防効果です。つまり口腔ケアとは、口の環境を整え、食べる機能を高めることなのです。
そして、食支援から多職種連携へ
外された入れ歯を入れるところから始まった僕の訪問診療でしたが、すぐに摂食嚥下障害(口から食べることに問題がある障害)へのケアも担うことになりました。
日本で摂食嚥下障害が注目されるようになったのは、1990年代中盤からです。当時はまだ黎明期で、まさに入ってきたばかりの学問でした。歯科では咀嚼(噛むこと)について学ぶ機会は多いのですが、嚥下(飲み込むこと)の障害については学生時代に聞いたこともなく、まったく知らない状態からのスタートでした。
また、当時の摂食嚥下リハビリテーションは入院患者を対象にしたものが中心で、在宅でできる訓練はほぼ皆無でした。そこで訪問診療の現場で、生活に即した訓練や自宅でできる訓練を考えながら、少しずつ成果を出していきました。そして、在宅医療の中で歯科にできることは「入れ歯を中心とした歯科治療」「口腔ケア」「摂食嚥下障害へのリハビリテーション」の3本柱だと確信していきました。
そんなある日、ご主人を介護する奥様から、衝撃的な一言を言われました。
「五島先生、ありがとうございます。先生が主人にゼリーを食べさせてくださる、それだけが主人の生きる喜びなんです」
もちろん、僕が行けば食べられる状態かどうかを判断し、適切な食事介助で食べていただくことができます。しかし、僕がいない日には、誰も食べさせることができていなかったのです。そのとき初めて、歯科だけでできることの限界を感じました。
「食」を支えるために必要なのは、口の環境や食べる機能だけではありません。全身状態の管理、食事の姿勢、周囲の環境(テーブルや椅子など)、食事の形態、さらには実際の食事づくりや介助など、多くの要素があります。これらを歯科だけでカバーできるわけがありません。
実は、それぞれを支援するプロフェッショナルがいたのです。全身状態を管理する医師や看護師、食事の姿勢を整える理学療法士、周囲の環境を整える福祉用具専門相談員、食事の形態を調整する管理栄養士など。こうした「食」を支えるプロフェッショナルが地域で連携することで、地域の食が守られるのです。
現在、私たちが活動する東京都新宿区には「新宿食支援研究会」があり、160名、20以上の職種で構成されています(執筆時点)。「食」は生活そのものです。食支援は、生命(いのち)の支援なのです。
執筆者 五島 朋幸(歯科医師)
1965年広島生まれ。1991年日本歯科大学歯学部卒業。1997年に訪問歯科診療に取り組み始める。2003年 ふれあい歯科ごとう代表。博士(歯学)。日本歯科大学附属病院口腔リハビリテーション科臨床准教授、日本歯科大学東京短期大学歯科衛生士科講師、東京医科歯科大学非常勤講師ほか。新宿食支援研究会代表。2003年よりラジオ番組「ドクターごとうの熱血訪問クリニック」のパーソナリティーを務める。著書に『口腔ケア○と×』(中央法規出版)、『訪問歯科ドクターごとう① 歯医者が家にやって来る!』(大隅書店)など。(プロフィールは執筆時点のものです)
※本記事は、医療・介護の専門職による寄稿を当社編集部で再編集したものです。内容は執筆時点の情報にもとづく一般的な解説であり、症状や状況には個人差があります。具体的な判断は、かかりつけの医師・歯科医師・薬剤師などの専門職にご相談ください。




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